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アセチルコリンによる心臓機能を解明して
新たな治療戦略確立へ
人間の心臓は1分間に約60~90回、1日に10万回もの収縮と拡張を繰り返し、全身に血液を行きわたらせるポンプの役割を果たしています。日本医科大学大学院医学研究科 大学院教授の柿沼由彦先生は、心臓機能を調整する自律神経の中でもブレーキ役である「副交感神経」に着目。副交感神経が放出する「アセチルコリン」が、心筋細胞からも産生されていることを世界で初めて発見しました。この発見は心疾患に限らず、脳や他臓器の新たな治療法として発展する可能性を秘めています。
心臓の機能は、自律神経の交感神経と副交感神経によって制御されています。交感神経はノルアドレナリンを放出して心臓の働きを強める“アクセル役”、副交感神経はアセチルコリンを放出して心臓の働きを弱める“ブレーキ役”。ノルアドレナリンは、弱った心臓機能を回復させる強心薬としても使われていました。
しかし、ノルアドレナリンによる心機能の亢進が過剰になると、活性酸素などの物質が出て心臓機能が低下、寿命を短くしてしまいます。そこで交感神経受容体をブロックする治療薬が主流になりましたが、いずれも交感神経をターゲットとしていることに疑問を感じ、副交感神経に着目したのが柿沼由彦先生でした。
「交感神経受容体をブロックするのは、自動車でいえばアクセルを踏みながらブレーキを踏むようなもの。副交感神経の作用を強めることで心臓を休ませた方が治療効果があると分かってきたのです。心筋梗塞を起こしたラットの実験でも、心拍数を下げた方が長生きでした」
ただ、心臓における交感神経と副交感神経の分布を見ると、交感神経に比べて副交感神経は圧倒的に少なく、放出されているアセチルコリンの量はノルアドレナリンに対抗できるほどありません。柿沼先生は「心筋細胞そのものがアセチルコリンを産生しているのでは?」と当時の常識ではあり得ない仮説を立て、その仮説が正しいことを世界で初めて明らかにしました。
心筋細胞が大量のアセチルコリンを作り出すシステム「NNCCS」は、心臓の虚血耐性を高めるだけでなく、肝臓や脳に対してもさまざまな良い影響を与えている
NNCCS機能を強化するとマウスの寿命が長くなる
アセチルコリンは、神経伝達物質として知られており、神経細胞から産生されます。この物質が神経細胞からではなく心筋細胞そのものから産生されているということを調べるため、柿沼先生は心臓の中でも副交感神経の分布が最も少ない部分から、心筋細胞だけを分離して培養。神経細胞を含まない培養心筋細胞のアセチルコリンを測定し、心臓自らがアセチルコリンを産生していることを示すデータを得ることに成功しました。こうして発見されたのが、「NNCCS (非神経性心筋コリン作働系)」です。
この存在が明らかになると、次にそのシステムがどう心臓に影響を与えるかを調べました。柿沼先生は神経以外の心臓心筋細胞でアセチルコリンを大量に産生する特別なNNCCS機能を強化した遺伝子改変マウスを作製、さらにアルツハイマー病治療薬や理学療法によってNNCCSが機能亢進されることも発見しました。
このNNCCS機能を強化したマウスに心筋梗塞を起こさせると、通常のマウスでは2週間以内に半分以上が死にますが、NNCCS機能を強化したマウスは、9割以上が2週間以上たっても生きていました。
また、マウスから取り出した心臓を特別な装置につないで、適度な濃度の酸素を含む液体を流す実験をしたところ、NNCCS強化マウスはこの液体を止めてから心拍が止まるまでの時間が通常のマウスに比べて3倍長く、再び液体を流し始めて心拍が再開するまでの時間が3倍速いことが分かりました。以上のことは、NNCCS強化マウスは虚血耐性が高いことを示しています。
「虚血耐性が高いということは、狭心症や心筋梗塞などのリスクを低減する新たな治療戦略となります。また、心臓移植で摘出心臓を良好な状態で保つ有効な方法にもなるでしょう」
実際にその後、海外のグループが行った疫学研究で、アセチルコリンの合成能力を高めたアルツハイマー病治療薬を投与された群は、非投与群に比べて、心臓死の割合が低かったのです。
精神疾患や脳障害に対する
アセチルコリンの効果も
心臓機能におけるアセチルコリンの影響を調べるために始まった研究は、その後、循環器以外の臓器へと発展しつつあります。心臓のアセチルコリン濃度を高めたこのNNCCS強化マウスは、ストレスを与えてもうつ状態になりにくく、外からの中枢神経刺激への反応程度も少なく、性格的に穏やかであるといった特徴があることが分かりました。
「生理学的には、脳が心臓に与える刺激より、心臓が脳に与える刺激の割合の方がはるかに大きいので、心臓のアセチルコリン産生能の高さが脳に影響していても不思議ではありません」
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また、NNCCSは副交感神経に含まれる迷走神経を介して中枢にも作用し、脳の血液脳関門のバリア機能を強め、脳内炎症を抑制する可能性も発見しました。NNCCS強化マウスは脳損傷モデルやパーキンソン病モデルにおいて、その機能障害を軽減させます。肝臓やその他臓器についても、NNCCSの生理機能が次々と明らかになっています。
「さまざまな生理機能の解明を進めるとともに、NNCCS機能を高める新たな薬の開発にも取り組み始めたところです。いずれはこれらの成果を多くの人に還元できるよう、臨床応用を視野に入れた研究を進めていきます」
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柿沼先生の研究スタッフ
柿沼 由彦先生(かきぬま・よしひこ)
日本医科大学大学院医学研究科生体統御科学分野 大学院教授
1988年に千葉大学医学部卒業。2000年に筑波大学大学院医学研究科修了。医学博士。米国バンダービルト大学リサーチフェロー、理化学研究所脳科学総合研究センター研究員、高知大学医学部准教授を経て、2013年より現職。2009年に心筋細胞自身が産生する非神経性心筋コリン作働系(NNCCS)を発見。著書に『心臓の力 休めない臓器はなぜ「それ」を宿したのか』(講談社ブルーバックス)などがある。