変わり続ける時代の中で、新たな医療を創り出そうと挑み続ける医師たち。そのチャレンジの根底にあるもの、その道程に迫ります。
創人
答えを教えるのではなく
考える力を引き出す医学教育を
江戸時代から10代続く医師の家系に生まれて
「医師になるのは当たり前だと思っていました」。藤倉先生に医師を目指したきっかけを聞くと、そう答えが返ってきた。それもそのはず、藤倉先生の家は江戸時代から10代続く医師の家系だという。父からは一度も「医師になれ」と言われたことはなかったが、物心がついた頃には祖父や父と同じ道を進むと決めていた。
幼少期は日本医科大学がある千駄木から駒込界隈で暮らし、染井霊園や小石川植物園、六義園に毎週のように遊びに出かけるような活発な少年だった。魚釣りや虫捕りに明け暮れていたという。
「本当は園内で魚を捕ってはいけないのですが、何度も通ううちに係の人と顔なじみになって、逃がすことを条件にこっそり釣らせてもらっていました」と、当時の思い出を笑顔で語る。魚や虫だけでなく、生物への興味が尽きなかったのだろう。池の水を持ち帰り、祖父が使っていた顕微鏡でミジンコの観察をしたこともある。
かつて日本医大で学んだ父の跡をたどるように、同じ大学に進学。大学では真面目に勉学に励みながら、部活で始めたアーチェリーを楽しむようになった。医学部4年生のときには、競技人口が少なかったアーチェリーで、独自のリーグを作るために奔走した。
「全国の医科大学の生徒会にハガキを送り、『アーチェリーをやっている人がいたら教えてください』と呼びかけたんです。返事のあった大学を集めて、第1回となる全国大会を開催しました」
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そしてスタートしたのが「全日本医科学生アーチェリーリーグ」である。北は岩手から、南は福岡の大学まで8校が参加した。リーグは40回を超え、現在も続いている。藤倉先生にアーチェリーの魅力を聞いた。
「精神性が身体に伝わるところですね。しかも、その感覚が身体の細部まで伝わらないと結果につながらない。そこに面白さを感じました」
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学生時代は日本医科大学のアーチェリー部に所属。現在は顧問を務めている
9時17時で働く毎日
仕事と育児の両立に奮闘
藤倉先生が耳鼻科を専門に選んだのは、父の影響が大きい。自宅で耳鼻科の医院を開業していた父の姿から、「医師として同じように働く自分がイメージできた」と話す。
藤倉先生にとって人生の大きな転機は、その後に勤務した千葉の民間病院で訪れる。きっかけとなったのは、結婚、そして娘たちが生まれたことだった。
「子どもが1人だったら、もしかしたら妻に育児を任せて、仕事にまい進していたかもしれません。でも、生まれたのは双子でした」
双子の子育ては、とても妻1人でできるものではなかった。今でこそ、男性の育児休暇が浸透してきているが、当時は制度もなければ、男性が子育てに参加するのも珍しかった時代だ。
「とにかく9時から17時まではきっちり働き、休日とアフターファイブは育児にあてました」
育児に追われる日々だったが、決して仕事の手を抜くことはなかったという。集中して臨床に取り組み、藤倉先生が赴任してからは手術件数も紹介患者数も増えていった。なぜ仕事と育児をうまく両立できたのだろうか。
「スタッフが協力してくれたからです。一緒に働く医師たちは女性が多く、育児への理解もありました。なかには産休・育休を経て戻ってきてくれる人もいて、お互いに助け合う風土ができていました」
教えることの本質は学修者の学びを引き出すこと
子育てを通じて「人を育てる喜び」を知ったことで、教育に強い関心を抱くようになった藤倉先生。当時、日本医大の耳鼻咽喉科の主任教授だった八木聰明先生から、「君は教育職に向いている」と背中を押されたこともあり、教育の道へと導かれていく。
2004年には、先駆的な医学教育に取り組んでいた東京女子医科大学へ。そこで教員研修を受けたときに、藤倉先生はふと疑問を感じたという。
「学生に対して手取り足取り教えていて、過保護すぎるように見えました」
その疑問を名誉教授の神津忠彦先生にぶつけると、こう答えが返ってきた。「高等教育の本質は、教えることではなく、学修者の学びを引き出すこと。単に教えるよりもはるかに手間がかかることなのです」
学生たちの学ぶ意欲をかきたてて、適度な距離で手を差し伸べる。それは、単に知識を「教える」だけの教育よりもずっと難しい。だからこそ、教員は一見「過保護」なまでの準備をして、支援する必要があるという。
「それまで子育てを通して実感していたことが、教育哲学として明確に理論づけられた瞬間でした」
2005年にはカナダのマックマスター大学に、1カ月の医学教育の研修を受けに行った。そこで学んだ「問題基盤型学習:PBL(Problem Based Learning)」は、後に藤倉先生が日本医大で取り組むカリキュラムの土台となっている。
PBLとは、何を勉強したいのかを学生自身が決めるもの。道に迷ったときだけ、チューターと呼ばれる教員がアドバイスする仕組みだ。当時、マックマスター大学で教育のマネジメントをしていたウォルシュ先生から言われて、印象に残っている言葉がある。
「Teaching is learning twice over(教えることは二度学ぶこと)」 学生に教えることで、教員はもう一回学ぶ。この言葉は、藤倉先生の座右の銘になっている。
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2005年カナダのMcMaster大学での医学教育研修でWalsh教授と共に
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日本医学教育学会が主催する富士研 ワークショップ。ゲスト講師の日野原重明先生を囲んで
【日本医科大学医学教育センター】
医学教育全般の研究・支援部門として2014年に発足した医学教育センター。卒前・卒後の教育全般に関わりながら、日本医科大学の医学教育を充実、発展させるためにさまざまな取り組みを実施しています。付属病院の高度救命救急センターの医師と共に開発したVR(バーチャル・リアリティ)を使った研修システムや、東京理科大学と共同で進めているAIやロボットの研究など、医学教育における先進技術の活用にも力を入れています。
実践的な医療を学ぶためのカリキュラムを開発
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現在、藤倉先生が部門長を務める医学教育研究開発部門では、より実践的な教育プログラムの開発に力を入れている。例えば、シミュレーターやVRを活用した実習もその一つ。臨床現場のリアリティをつかめるように、積極的に導入している。藤倉先生が定着させた問題基盤型学習でも、学生自らが課題をつくることで、これまで以上に自主性を高めるカリキュラムが取り入れられている。
「ずっと同じことをやるのではなく、時代や社会のニーズに合わせて新しいカリキュラムを作り上げていく必要があると考えています」
また、藤倉先生は医療系大学間共用試験実施評価機構の認定標準模擬患者委員会の委員長として、日本の医学教育における重要な役割を果たしている。
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内視鏡の手技を学ぶことを目的に開発された医療シミュレーター「mikoto」。リアルにつくられた消化器を目で見ながら実習できる。
模擬患者とは、学生が臨床の現場で求められるスキルを実践的に学ぶために「患者さんの役」をする市民ボランティアらのこと。日本医大では以前から模擬患者の養成に力を入れていた背景がある。2023年度の医学生共用試験の公的化に伴い、全国で質の高い模擬患者を確保する必要があったため、これまで模擬患者を養成してきた実績のある藤倉先生が委員会の責任者に選任されたのである。現在、全国にいる500人の模擬患者を、倍以上に増やすために尽力している。
藤倉先生が、医学部1年生への最初の授業で必ず伝えていることがある。
「医学とは何か、という問いに対する自分なりの答えを見つけてほしい。そのための卒業論文に提出期限はありません。もしかしたら一生かかっても書きあがらないかもしれない。でも、医師として考え続けてほしいと思います」
医学とは何か――。藤倉先生は自身にもそれを問いかけながら、今日も学生たちに向き合っている。
藤倉 輝道先生(ふじくら・てるみち)
医学教育センター・医学教育研究開発部門長/教授
1988年日本医科大学医学部卒業。同大学耳鼻咽喉科学教室に入局。谷津保健病院にて耳鼻咽喉科部長、副院長を経て、東京女子医科大学付属第2病院(現・東医療センター)耳鼻咽喉科講師、准教授。2011年日本医科大学武蔵小杉病院耳鼻咽喉科准教授、2012年同大学教育推進室副室長を経て、2015年に医学教育センター・医学教育研究開発部門長、教授に就任。