変わり続ける時代の中で、新たな医療を創り出そうと挑み続ける医師たち。そのチャレンジの根底にあるもの、その道程に迫ります。
創人
人々の健康をテーマに
予防的な視点で研究に取り組む
病気になる前の段階で予防のアプローチを
予防医学の重要性を感じたことから、衛生学公衆衛生学の道を歩み始めた川田智之先生。大学時代は病理学の教室によく出入りしていた。そこで、大学院生たちの生活を観察するうちに、社会の中には病気になってしまった人だけではなく、それ以上に普通に日常生活を送りながらもちょっとした不調に悩み苦しんでいる人たちがたくさんいるのだと気付いたという。
「病気になっていないからといって、必ずしも皆さんが健康な状態というわけではありません。健康と一言で言っても、さまざまな段階や幅があるものです。それならば、病気になる前の段階の人たちに何か役立つことはできないか。そう思ったのが、衛生学公衆衛生学に興味を持ったきっかけです」
衛生学公衆衛生学分野の研究を通して、人々がより健康に過ごせるようなアドバイスをしたい。その思いを抱いたことが、川田先生の原動力になっている。さらに大学卒業後、血液内科で研修を受けた経験も、病気になる前の段階に目を向ける契機になった。
「当時、血液内科で診ていた造血器腫瘍は、なかなか良い治療法が見つからず多くの患者さんが苦しんでいらっしゃいました。今でこそ有効な治療の選択肢が出てきましたが、その頃は医師として何もできないことにつらさを感じたのです」
臨床の現場で病気の患者と向き合った経験が、その後、川田先生が取り組む研究のモチベーションにもつながっている。
日本医科大学の衛生学公衆衛生学講座
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日本医科大学の衛生学公衆衛生学講座では、予防医学的な視点を中心に据え、人々の健康増進につながるような研究を進めているのが特徴。講座として長年取り組んでいる感染症疫学や産業衛生、中毒研究に加えて、最近では動脈硬化危険因子の変遷やメタボリックシンドロームの疫学、喫煙暴露指標としての唾液中コチニン濃度測定など、循環器疾患や生活習慣病の予防に関わる研究に力を入れている。
大正時代から続く講座
幅広い分野の研究に強み
衛生学公衆衛生学とは、医学という枠にとらわれずに、広く社会を捉えて人の健康を考えていく学問である。環境や生活背景など、社会におけるさまざまな因子がどのように人々の健康に関わるのかを調べ、その結果をもとに予防医学に取り組む。
川田先生はそうした衛生学公衆衛生学の基礎について、恩師である鈴木庄亮先生(群馬大学公衆衛生学分野 名誉教授)から学んだという。
「研究に必要な集団評価のやり方など、一から十まで全て鈴木先生に教えてもらいました。鈴木先生が取り組んでいた環境汚染のフィールドワークのために、インドネシアの未開の地まで一緒に行ったこともあります」
研究の基礎を身に付け、日本医科大学の衛生学公衆衛生学分野の主任教授に就任したのが2003年。日本医科大学の衛生学公衆衛生学講座の歴史は古く、大学が開設された1926年より以前の日本医学専門学校時代から活動の記録が残っている。
もともと日本には衛生学という学問があり、戦後アメリカ文化が流入する中で、公衆衛生学が広まっていった。一般的に衛生学は、実験を中心とした細菌学などの基礎医学手法による病因特定を主な守備範囲とし、それを社会に還元していくのが公衆衛生学の考え方。その二つの分野を一つの学問として捉えてきたのが、日本医科大学なのである。ここ30年ほどで、同じように二つの分野を統合する大学が一気に増えたが、日本医科大学はその先駆けだったといえる。
日本医科大学の同講座では、これまで感染症研究をはじめとして、赤痢疫痢実態調査や地下鉄サリン事件に関連した調査など、国内の疫学研究の分野で重要な役割を果たしてきた。
「私たちの講座には、医師だけでなく、環境学や薬学を専門とするスタッフが在籍し、それぞれの持ち味を生かしながら研究を進めています」
健康に関わる睡眠について
騒音を流して脳波を測定
川田先生が長年のテーマとして取り組んできたのが睡眠である。日本医科大学に赴任する前後の10年は、騒音や振動が人の睡眠にどのような影響を及ぼすかを調べる研究に力を尽くした。
「夜に環七で騒音を録音して、その音を実験室で流しながら被験者に眠ってもらいます。脳波を測定し、騒音によってどのような睡眠構造の変化があるのかを調べました」
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騒音の研究では、恩師の鈴木先生と共にスウェーデンで開かれた騒音シンポジウムにも参加した。日本とスウェーデン両国から、騒音に関わる研究者が50人以上集まり、活発な議論が交わされたという。
「スウェーデンのシンポジウムに参加できたのは貴重な経験でした。今振り返ると、若いうちに海外で学んでみたかったという気持ちもあります」
現在、川田先生の研究室では、生活習慣病や循環器疾患、喫煙対策、高齢者のQOLなどをテーマとして研究が進められている。特に循環器を専門とするスタッフを中心とした、予防医学への取り組みが注目を集めている。
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1996年4月に開催された第3回日本スウェーデン騒音シンポジウムにて。恩師の鈴木庄亮氏、スウェーデン王国ヨーテボリ大学のラグナー・ライランダー教授と共に。
「肥満や喫煙、飲酒といった循環器疾患のリスクとなるようなものについて、一般の方たちに理解していただくにはどうすればよいか。日常生活の中でどのように習慣を改善していくことができるかを、私たちは考えています」
研究では、産業医として実際に診療を行いながら、ライフスタイルなどをモニタリングする。そして、特定健診や特定保健指導を活用して、研究結果を踏まえたアドバイスを行っている。
川田先生の最近の研究の一つに、日本の自動車工場労働者のコーヒー消費量と心理的幸福の関連性を調べたものがある。全日本コーヒー協会の助成を受けて2019年に実施された。大規模な調査の結果、コーヒーを飲むことが精神に良い影響を与えているという傾向はあったものの、明らかな関連性までは認められなかった。しかし、今後の追跡調査によって、さらに分析が進む可能性もあるという。
「公衆衛生の調査では、長い期間をかけて集団を観察していく必要があります。必ずしもクリアな結果ではなくても、常に先を見ながら傾向を分析し、追いかけていく視点が大切なのです」
自分に合う医学の道を粘り強く探してほしい
川田先生にとって衛生学公衆衛生学の面白さとは何だろうか。
「衛生学公衆衛生学で学ぶ疫学・統計学は、実は臨床でも使われることがあります。例えば、治療によってどのくらい効果があるのかを調べるときには、私たちが持っているノウハウが役立つことがあるのです。それが実感できると面白いですね」
また、まだ病気ではない段階で、悩みや問題を抱える人々に対してアドバイスができるのも衛生学公衆衛生学の魅力だと話す。
講義や実習を通して、学生たちの教育にも力を入れている川田先生。将来の専門分野の選択について、こう呼びかける。
「学生のうちにやりたいことが見つからずとも、粘り強く探し続ければ必ず見つかります。それに、違ったなと思ったらやり直すこともできます。それぐらい自由に考えればよいと思います」
医学の道は広くて深い。だからこそ、個性を持った人たちが活躍できる場が必ずある。それが川田先生の考えだ。
「衛生学公衆衛生学は長いスパンで物事を考えていく学問なので、短い期間で成果を出そうとすると息切れしてしまいます。だから、少し余裕を持って物事を捉えていくことができる人に向いているのではないでしょうか。学生の皆さんには、医学というたくさんの選択肢の中から、自分に合った道を見つけてほしいですね」
川田先生の研究室で公表された研究成果(一部)
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● 自覚的健康度評価の意義
● メタボリックシンドロームの発症率およびその発症に影響を及ぼす生活習慣因子
● 喫煙と心臓ストレス
● ディーゼル排気粒子曝露がアレルギー性気管支喘息へ及ぼす影響
● ディーゼル排ガス曝露がブレオマイシン肺線維症病態へ及ぼす影響
● 新たな素材を用いた唾液採取器具の作成
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● グランザイム3のカテプシンCによる活性化
● 正常耐糖能者における頸動脈初期動脈硬化
● HCV持続感染者におけるHCVコア抗原量の長期的観察
● 森林浴(森林環境)による血圧等への影響
● 森林浴(森林環境)による免疫機能への影響
● バイオ燃料ETBEの慢性吸入曝露によるマウス脾臓細胞への影響
● カーバメイト系農薬による免疫機能への影響
● 健康格差とその要因に関する20年間の経年的分析
川田 智之先生(かわだ・ともゆき)
日本医科大学大学院医学研究科 衛生学公衆衛生学分野 大学院教授
1984年に群馬大学医学部卒業後、同大学大学院医学系研究科 社会医学系公衆衛生学分野に入局。助手、講師、助教授を経て、2003年に日本医科大学衛生学公衆衛生学分野の主任教授に就任。環境騒音や振動が睡眠にどのような影響を及ぼすか、睡眠と健康をテーマにした研究に尽力。2019年には全日本コーヒー協会の助成を受け、コーヒー消費量と心理的幸福の関連性を調べる職域疫学研究を実施。