変わり続ける時代の中で、新たな医療を創り出そうと挑み続ける医師たち。そのチャレンジの根底にあるもの、その道程に迫ります。

創人

ウイルス研究のエキスパート
「良い医師」教育にまい進

新型コロナウイルス感染症の流行で、今まさに注目が集まる感染症学。 北村義浩先生はこれまでウイルスの専門家として、 国内はもちろん、米国や中国で感染症学の研究に取り組んできました。 昨年からは、日本医科大学の特任教授として、 学生たちを「良い医師」に育てるための活動に力を注いでいます。

楽しみながら学んだ幼少期 近所の開業医の影響で医師に

「父は昆虫にも植物にも詳しくて、見ればなんでも分かるようでした。子ども心に小さな昆虫や雑草にも名前があるんだなと、びっくりした記憶があります」

雪深い石川県に生まれた北村義浩先生。父は小学校の理科教諭、母は保母だった。休みの日には父親と山に出かけ、植物採取をしては図鑑を見て名前を探し出し、分類するのがお決まりの日課になっていた。

北村先生の記憶に焼き付いている父の姿がある。夜中に書斎で、生徒に向けた配布物を作っている姿だ。当時、コピー機はなく、生徒への配布物は「ガリ版刷り」しかなかった。薄くロウが塗られた原紙の上を鉄筆でカリカリと文字を削っていく。その音は廊下まで響いていたという。

一緒に銭湯に行った帰り道には、「よしひろ、お月さまが見えるか? さっきからずっと後を付いてくるのは何でだ?」と急になぞなぞを出される。身近なところに興味を持たせ、楽しみながら自分の頭で答えを考えていく。「それが父の教育スタイルだったのかもしれない」と北村先生は振り返る。

医師という職業を意識するようになったのは、小学生の頃だった。熱を出すたびに往診をしてくれた、岡田医師という近所の開業医の影響が大きい。持っていた、どっしりとした黒い診察カバンも憧れのひとつだった。
「一度、岡田先生にガラス製の注射器(シリンジ)が欲しいと言ったら、うちの台所でじゃぶじゃぶ洗って、そのままくれたんですよ。うれしくて母にも自慢しました」

北村先生には7歳上の兄がいるが、いつも自分の一足先を歩む兄は、北村先生にとって、道の先を照らす電灯のような存在だった。小中高・大学と兄の背中を追いかけ、同じ学校に進学。気が付けば、目標のようになっていた。
「兄が医師を目指して大学に合格した時は、田舎なので近所の人がお祝いに一升瓶を持ってきて、それが何十本も居間に並び、お祭りのようでした。僕の時はもっとお祝いしてもらえるだろうと思って同じ大学に合格したんだけど、2、3本しかこなくて…。それにはがっかりしましたね」と笑顔で話す。

細菌学への興味からウイルス感染症の研究に

  • 大学時代の北村氏(後ろ中央)。この年、東日本医科学生総合体育大会で2位になった

  • 大学に入ってからも兄の後を追い、漕艇部(ボート部)に入った。1年のうちに4カ月は合宿をしなければならない伝統の部活動だったが、それによって同級生だけでなくOB・OGとの絆も緊密なものとなった。
    そこで出会ったのが、ウイルス学者の吉倉廣(ひろし)教授(当時)だった。部活動で親交を深めるうちに、吉倉教授率いる東京大学医学系研究科の微生物学講座に出入りするようになっていった。

    「思えば、子どもの頃からよく伝記を読んでいたのですが、特に好きだったのが野口英世と北里柴三郎でした。もともと細菌学やウイルス学に興味があったのかもしれませんね」

北村先生が学生だった1980年代後半は、HIV(ヒト免疫不全ウイルス)をはじめとするウイルス疾患が増えていた時期でもある。ちょうど世間でもウイルス感染症への注目が高まっていた時代だ。北村先生は吉倉教授の下で、人への病原性が低いマウスやウシのウイルス感染症の研究から始めた。

「実験は料理のようなものです。頭で考えるだけではなく、手を動かして正確に行わなければなりません。だから必死になって朝8時から夜12時までひたすら実験をしていました」

北村先生の専門は、ウイルスの中でも、レトロウイルスと呼ばれるものである。その代表的なのが、AIDS(エイズ)を発症させるHIV、HTLV−1(ヒトT細胞白血病ウイルス)などである。大学卒業後、入職した国立感染症研究所でも研究を続け、その後、米国へ2年半の留学を経験する。

当時、米国におけるウイルス研究の大家として知られる、ジョン・コフィン博士のいるボストンのタフツ大学に留学し、レトロウイルスの最先端の研究に従事した。遺伝子治療の基礎についても学び、帰国後は東京大学医科学研究所の感染症部門で、これまでの基礎研究からさらに臨床に近い診断や治療に関わるようになった。

必ず起きる感染症の流行 一人一人が備えを

2002年に中国で端を発し、パンデミック(世界的大流行)に拡大したSARS(サーズ:重症急性呼吸器症候群)は私たちの記憶にも新しい。日本でもSARSの研究が一気に進められたが、そうした研究に携わったのが北村先生だった。PCR検査を正確に短時間で実施するにはどうすればよいか、といった診断方法を確立した。

  • 中国の研究所

    特任教授として赴任した中国の研究所で

  • 「今考えると、昨年、新型コロナウイルス感染症が流行した時の対策と同じことを、すでに20年ほど前にやっていたことになります」
    SARS流行の経験を経て、文部科学省が取り組んだのが中国との共同研究である。「新興再興感染症海外拠点形成プログラム」として、2005年度から動き出した。中国に研究室を作り、日本人の研究者が常駐する。研究には中国の若い研究者も加わった。

    東京大学医科学研究所にいた北村先生は、特任教授として現地の研究室に着任。当時、中国国内での感染が深刻だったHIV、B型肝炎ウイルス、鳥インフルエンザウイルスについて共同研究を行った。

「中国の研究者はほとんどが欧米に留学した経験のある人たちなので、最先端の研究ができる環境でした。全員英語が話せたので、コミュニケーションも全く問題ありませんでした」

これまでさまざまな感染症の研究をしてきた北村先生は、現在の新型コロナウイルス感染症をどのように見ているのだろうか。
「2003年のSARS、2009年の新型インフルエンザ(豚インフルエンザ)、2012年のMERS(マーズ:中東呼吸器症候群)と、これまで数年おきに飛沫(ひまつ)感染でうつるウイルス感染症の流行がありました。デング熱やジカ熱など飛沫感染しないものを含めるともっとあります。一定の周期で感染症は発生するものと認識しておかなければなりません」

感染症の流行に対して、大地震と同じように日頃から備える必要があると北村先生は呼び掛ける。もはや、流行を前提としたウイルス対策ができる社会システムの構築が必須だという。

「心強いのは、ワクチンが1年以内という従来と比べ速いペースでできたこと。次に感染症が流行しても、おそらく1年でワクチンができるでしょう。ワクチンができるまで備える。そんな生活スタイルになっていくはずです」

「良い医師」を育てるために医学教育を変えていく

北村先生は現在、医学教育センター個別化教育推進部門の部門長として、医師国家試験対策にも取り組む。
「日本の医師国家試験は世界に誇る素晴らしい試験です。この試験に受かるということは単に医師の資格が与えられるだけではなく、しっかり教育を受けた医師である証明にもなります」

つまり医師国家試験に受かる教育は、「良い医師を育てる」ことにつながると北村先生は考えている。そして北村先生が目指すのは、医学教育を変えること。

「もちろん基本的な知識は必要ですが、これからは知識の詰め込み教育ではなく、必要な情報に適切にアクセスできるようにすることが重要です。知識を持っている人に教えてもらい、論文はネットで調べ、それぞれの情報を共有しながらチームプレーができる人材こそが必要だと考えています」

奇しくも同じ医学の道に進んだ兄は、北村先生とは違う大学ではあるが、医学教育に関わる組織で改革を進める。異なる分野を選んできたつもりだったが、再び道は重なった。

「巡り巡ってまた兄と同じ道を歩いていますね」。北村先生はうれしそうな表情を浮かべた。

  • 日本医科大学 医学教育センター
  • 日本医科大学 医学教育センター

    医学教育の全般の研究・支援部門として2014年に開設しました。教育理念である「愛と研究心を有する質の高い医師、医学者の育成」を達成するため、学生選抜から卒前教育、さらには卒後教育を含めた生涯教育を包括的に統括し、効率的な医学教育を展開することを目的としています。①医学教育研究開発部門 ②医学教育支援部門 ③個別化教育推進部門が設置されています。

北村 義浩先生

北村 義浩先生(きたむら・よしひろ)

日本医科大学 医学教育センター 副センター長、特任教授

1985年 東京大学医学部医学科卒業。1989年に同大学大学院医学研究科微生物学の博士課程を修了。1990年に米国のタフツ大学に留学。2006年からは中国の日中分子免疫学・分子微生物学連携研究室(LMIMM)で新興再興感染症の研究に携わる。帰国後は国立感染症研究所室長、国際医療福祉大学基礎医学研究センター教授を経て、2020年4月から現職。

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