特集

日本医科大学 今昔物語

「技術と心」「済生救民と社会との共生」

日本癌治療学会学術集会から

「技術と心」

今年、日本医科大学学長の弦間昭彦先生が大会長となる2つの学会集会が行われます。その一つが、10月22日(木)~24日(土)開催予定の日本癌治療学会学術集会です。
テーマは、「技術と心」(Humanity-Centered Technology)。がん治療の進歩とともに「心」がますます重要になるからです。日本癌治療学会学術集会の話題を中心に日本医科大学のがん治療への取り組みについて日本医科大学大学院呼吸器内科学分野大学院教授代行の清家正博先生に伺いました。

がん診療に関わる全ての医療者が参加

─日本癌治療学会学術集会とはどんな集会なのですか。

日本中のがんの治療に関わるあらゆる医療者が一堂に会し、診療科や臓器にこだわらず最先端の情報を交換し議論し合います。一般的に学会は「呼吸器」や「循環器」など診療科別に分かれていて、診療科の異なる医師が一緒になって意見交換をする機会は多くありません。

しかし実際の治療では、一人の患者さんが複数の部位のがんを持つこともあり、診療科同士が協力して治療に当たることがどうしても必要になっています。そのため、こうした学際的な場で診療科の枠にとらわれず臓器横断的に研さんを積むことはとても重要なことです。

進歩し続けるテクノロジーと使いこなす医師の心

─学術集会で、弦間先生は「技術と心」をテーマに掲げていらっしゃいます。

医師は今や、医学の勉強さえしていれば、よいという時代ではなくなりました。医療の世界にも、今までとは違う全く新しいテクノロジーの応用がどんどんと進んでいます。それをどうやって臨床に生かせるかは、弦間先生は日頃から、医師自身の本質的な部分にかかっていることを力説されています。技術だけが独り歩きすると、患者さんにとって安全・安心な医療は提供できません。

どれほど技術が進歩しても、それを実際の医療の場で生かすのは生身の医師だからです。そこで今回の学術集会ではその技術を使いこなす人の「心」もテーマにしました。

─がんの治療で応用されているテクノロジーとはどんなものでしょうか。

  • 手術支援ロボットを使った手術

    手術支援ロボットを使った手術

  • 例えば「手術支援ロボット」。人に代わってロボットが手術をすると思われがちですが、医師が手術をする際の手助けをしてくれる機器です。このロボットによって、微細な部位の手術が可能となり、傷口をできるだけ小さくして早期に社会復帰が可能となる「低侵襲医療」を実践することができるのです。以前は、前立腺がんでしか保険適用されませんでしたが、現在はさまざまながんに保険適用され、今後どんどん増えていくでしょう。

  • 手術支援ロボットを使った手術

    AI内視鏡を使うと、「early stomach cancer」(早期胃がん)のように、診断のアドバイスが表示される。ライブ配信で行われた市民公開講座(QRコード)で紹介

  • AI(人工知能)の応用も画像診断分野で進められています。例えば従来から内視鏡は診断能力の高い検査法として活用されていますが、早期胃がんの3割程度は見逃しているのではないかという報告があります。専門家の「経験知」であるAIが患部の画像を分析して病気の有無を推測する「AI内視鏡」を使えば、より正確な診断をどの医師でも行うことができるようになると期待が高まっています。

─「がんゲノム医療」という言葉も聞きます。

患者さんのがんに関係する遺伝子の配列を調べて(がん遺伝子パネル検査)、その患者さんの持っている遺伝子情報に合った薬剤を使い、効果的に治療する方法です。ただ、検査を受けても必ずしも適切な薬剤が見つかるとはかぎりません。有効な手立てがない患者さんもおり、必要以上に期待を持たせてしまう可能性もあります。

だからこそ、テクノロジーの進化に伴って、患者さんやその家族との良好な関係を構築することがますます重要となってくるのです。日本癌治療学会学術集会では、弦間先生が企画したシンポジウム「癌診療の進歩と患者・家族の新たな関係」も行われる予定で、新たな提案が期待されています。

「オール日本医科大学」で対応するがん治療

─新型コロナウイルス感染症の拡大が、がん治療にも影響を与えているそうですね。

  • 第58回学術集会のポスター

    第58回学術集会のポスター。窓の外(右側)に見える人物は、東京理科大学と共同開発しているアンドロイド型模擬患者ロボット

  • 治療や検査が必要な患者さんが来院をためらったり、がん検診の受診が滞るなど大きな影響がありました。緊急性が低い場合はフォローアップの間隔を延ばすなど柔軟な対応が必要です。しかし、新型コロナウイルスを必要以上に恐れてしまい、欠かせない治療を控えて患者さんに不利益が及ぶことだけは避けなければいけません。このタイムリーな課題についても、学術集会では取り上げられる予定です。

─最後に日本医科大学で行われているがん医療について教えてください。

日本医科大学は、診療科間の風通しがよく、病院を挙げて支援する風土が醸成されています。がん医療についても、著名な臨床医をはじめとして、腫瘍分子生物学の田中信之教授、本庶佑先生とともに腫瘍免疫治療の道を開いた岩井佳子教授などの基礎医学者がそろい、リバイオプシーバンクなどの環境も整備されて、まさに「オール日本医科大学」で最善の治療を提供し、また新治療の開発に努めています。

清家 正博先生

清家 正博先生(せいけ・まさひろ)

1992年日本医科大学医学部卒業。日本医科大学第4内科入局。国立がんセンター研究所リサーチレジデント、米NCI/NIH留学などを経て、2008年日本医科大学付属病院講師、2010年同大学付属病院がん診療センター副部長、2011年大学院呼吸器内科分野准教授、2015年同大学付属病院化学療法科部長。現在、同大学付属病院呼吸器内科部長、同大学内科学教授、同大学院呼吸器内科学分野大学院教授代行。

日本医史学会総会・学術大会から

「済生救民と社会との共生」

さらに12月19日(土)・20日(日)、学長の弦間昭彦先生が大会長となるもう一つの学会日本医史学会総会・学術大会が開催されます。
テーマは「済生救民と社会との共生」です。日本医科大学の原点である「済生救民」と、前身となった「済生学舎」に集った人々、医学界にもたらした功績、そして医療を超えた文化的意義をメインに振り返ります。その内容を通して、学術大会の実行委員長を務める元日本医科大学脳神経外科教授(現在は東京労災病院に在籍)の志村俊郎先生に日本医科大学に引き継がれる精神について伺いました。

庶民にやさしい良医を育てた歴史

─日本医科大学の前身の「済生学舎」はどういうところだったのでしょうか。

明治初期にコレラや赤痢などの伝染病が大流行しました。特にコレラは年10万人の死亡者数となる年が2度もありましたが、治療に当たる医師が足りませんでした。明治6年(1873年)の医師の履歴調査によると、医師は約2万3000人、そのうち西洋医学を学んだ者は2割強でした。

そこで、西洋医育成が喫緊の課題となり、内務省は、医術開業試験を開始しました。済生学舎はそうした緊迫した社会情勢の中、明治9年(1876年)に東京の本郷元町に興されました。

─創設のいきさつを教えてください。

創設者は長谷川泰(たい)という人で、当時のドイツ人医師、フーフェラントが書き緒方洪庵によって翻訳された内科書『扶氏経験遺訓』に記されていた「済生救民」(貧しく病気に苦しむ人々を救うことが医師の道)という言葉を実践する私立医学校を設立したのです。

済生学舎の講義は長谷川泰の譯述資料を用いて行われ、座学だけでなく、内科や外科、解剖、病理、薬理もあり、また眼科、婦人科、小児科、そして診断実地演習も教えました。同じ敷地内で医療費が無料の付属病院「蘇門病院」での臨床実習もありました。医師を目指す者は朝7時から夕方まで熱心に受講したそうで、後に国立大学の学長となる人や野口英世の姿もありました。

  • 長谷川泰 譯述資料

    長谷川泰 譯述資料

  • 済生学舎ギャラリー

    同資料を含め所蔵・陳列されている橘桜会館内にある「済生学舎ギャラリー」[当面、休館中]

済生学舎を支えた偉大なる医療人

─そうそうたる人物が学びました。

その一人、小口(おぐち)忠太は17歳で医術開業後期試験に合格し、先天性夜盲症の一型「小口病」を発見しました。「研究を行うなら100年後も教科書に載る研究をする」と常々語り、実際その業績は世界的な眼科の教科書である『RETINA』に掲載されました。

須藤(すとう)憲三は「実験では世界一」を自負し、糖尿病研究の先駆者となりました。学長といえば当時は官立大学出身者で占められていましたが、小口は現在の名古屋大学の学長、須藤は現在の金沢大学の学長を務めました。

野口英世は最短で済生学舎を卒業し、講師の坪井次郎から細菌学の薫陶を受け、細菌学者となりました。ノーベル賞候補に3度名が上がったという努力の人で野口を評した同級生の言葉が残っています。「官立大学でなくとも、校舎が粗末であっても、経済的に苦しくても、努力によって人類のために素晴らしい研究を遺した」。

─済生学舎は日本初の男女共学の医学校でもあります。

明治17年(1884年)に高橋瑞子(みずこ)(女医3号)が入学を許可されたことが始まりで、明治33年(1900年)までに136人の女医を養成しています。

済生学舎から輩出された医療者が日本医学の市医における本流をつくったのです。明治期の20年間に1万4833人の医術開業試験の合格者が出ましたが、9628人が済生学舎卒で、6割以上を占めていました。明治36年(1903年)に閉校となりましたが、講師らにより「私立東京医学校」「私立日本医学校」へと受け継がれ、現在の日本医科大学に続いています。

─千駄木の地には文豪も数多く住んでいたのですね。

  • 夏目漱石旧居跡

    橘桜会館脇にある「夏目漱石旧居跡」の碑

  • 日本医科大学付属病院に隣接する大学同窓会の橘桜会館は夏目漱石の旧居跡に建てられました。小説『吾輩は猫である』はこの文豪の旧居に猫が迷い込んだことをきっかけに書かれ、この橘桜会館には、小説にちなんで猫像もあります。

    旧居にはかつては森鷗外も住み、『青年』という小説には前身の日本医学校が登場します。旧居跡の碑「夏目漱石旧居跡」の題字を揮毫(きごう)したのは川端康成で、川端の父は済生学舎出身の医師でした。

また本学学内には、当時東京大学で西洋医学を教えていたドイツ人外科医、ユリウス・カール・スクリバが所有していた細菌学や外科学など、172冊の蔵書「スクリバ文庫」(大正8年=1919年開設)があります。長男のフリッツが本学でドイツ語の教授をした縁から寄贈されたもので、日本医科大学には医学と文学が交差し、昇華した歴史があります。

現代へと脈々と引き継がれる済生救民の精神

─済生学舎のどんなところが日本医科大学に引き継がれているのでしょうか。

  • 社会貢献の精神ではないでしょうか。一例を挙げると東日本大震災発生直後からDMAT 隊が被災地に駆けつけ、トリアージや巡回診療を行いました。

    1977 年に日本で初めて開設した付属病院の高度救命救急センター、2001 年に全国に先駆けてスタートした千葉北総病院のドクターヘリ事業も、そのモットーは、「救急患者を決して断らない」こと。「困窮する人を扶け、庶民に寄り添う医療」という済生学舎から現代へ脈々と流れる日本医科大学の精神は、今も本学の医学・医療へと引き継がれています。

  • 第121回総会・学術大会のポスター

    第121回総会・学術大会のポスター

志村 俊郎先生

志村 俊郎先生(しむら・としろう)

1971年日本医科大学医学部卒業。同年日本医科大学大学院入学。新潟大学脳研究所神経病理学部門留学などを経て、1976年に付属病院脳神経外科勤務。同科講師、米国アルバート・アインシュタイン医科大学留学などを経て、1989年日本医科大学多摩永山病院助教授、2002年日本医科大学教育推進室副室長・助教授、2004年同室長・教授。2012年3月に日本医科大学を定年退職。現在、東京労災病院第二臨床検査科部長。

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